私が狭山に引っ越して来たのは小学5年生の時です。大人になってからは小さな移動は繰り返していますが、合計すれば一番長く住んでいるのが狭山になります。 

 10歳になるまでいろんなところに暮らしました。
 生まれた地である小金井の記憶はありませんが、1歳から3歳までを過ごした茨城の海辺の家のことはよく覚えています。太平洋の水平線が望める高台の家で、まわりに暮らす人も少なく、いつでも潮騒が響いていました。今でも大好きなのどかな土地です。

 その後に越した東京の東久留米では、公務員宿舎に暮らしました。十数棟もある大規模な団地です。80年代で子どもの多かった時代であり、私の母も友だちのお母さんも多くが専業主婦でした。複数の生協が団地に出入りしていて、母は生活クラブ生協でのさまざまな活動に取り組んでいました。食の安全や環境問題への関心は母の影響を大きく受けています。
 
 小学校に入学すると間もなく、父の仕事の関係でアメリカに引っ越しました。暮らしたのはワシントンDCのベッドタウンであるメリーランド州の町です。おそらく東京近郊の狭山と似たような位置付けだと思うのですが、自然環境は比較にならないスケールでした。自宅のすぐ裏には美しい小川の流れる大きな森が広がっていました。現地の公立小学校では、いろんな国、いろんな人種の友だちができました。アメリカの学校は、生活も子どもも先生も日本とはずいぶん雰囲気が違いました。たとえば、先生が「誰かこれやってくれる人はいない?」と言えば、子どもたちは我先にと一斉に手を挙げました。発言もどんどんします。私は帰国後も同じような調子で学校生活を送っていましたが、どうもまわりの子たちはそうではないらしいと気がついたのは、もう少し成長してからのことです。
 
 狭山に転入してからも、自由でのびのびした小・中学時代を送りました。学年全員が友だちだと思っていた私は、特定の友だちとばかり付き合うのではなく、たくさんの友だちの間を自由に行き来して気ままに過ごしていました。学校からの帰り道に雑木林を通り抜けるのが好きだったのですが、どんどん木が切られて家が建てられていった悲しい時代でもありました。 
 
 大学では臨床心理や発達心理を学び、人間形成や教育について見識を深めました。そのうちに個人の内面ばかりに関心を置く心理学ではもの足りなくなり、社会学に転向して大学院に進みました。社会学では、ものごとを多角的に眺めることや、社会を一人ひとりの多様な経験の集合体と捉える眼差しを学びました。平均値でくくってわかった気にならないということです。もっとも、木を見て森を見ずという言葉もあるように、ものごとを俯瞰して眺めることも必要ですから、多角的に多方向的に捉える心構えが大事なのだと理解しています。
 
 大学院を修了してからは、出版社で雑誌編集の仕事につき、片道90分の通勤を続けました。子どもができてからも、時には終電で帰ってきたり会社に泊り込んだりすることがありました。そんな暮らしを約10年間続け、その時の取材や撮影、執筆の経験を生かして、2010年にフリーの写真家として独立しました。主な仕事は、雑誌やウェブでの取材、撮影、執筆です。社会的なテーマを扱う媒体の仕事が多く、環境問題、高齢者福祉、子育て、保育教育、ヤングケアラー、LGBTQ、人種差別問題など、多岐にわたる取材を重ねました。各地で活躍している人や団体に赴いてカメラを構え、生の声を聞き、メディアを通して伝えてきました。
 
 当事者の声を受けて草の根から始まったような活動団体と出会う機会も多く、そんな取材先に私はいつも力強さを感じていました。自分たちの地域から社会をよりよくしたいというエネルギーがひしひしと伝わってきました。まちづくり活動にしても当事者意識を強く持っていて、私もこうした気運のある土地に住みたい、あるいは、自分が一所懸命になれるまちに住みたいとよく思いました。私は貸家住まいで仕事もフリーランスなので、居住地の縛りがありません。だから、いつか自分が一生住みたいと思える土地に移住したいと、いつもどこかで移住先を探しているところがありました。でも、コロナ禍で移動が制限される中で思いました。いつまでいるかわからなくても、今いるまちは大事な居場所じゃないかと。他の人だって、転勤で一時的に狭山に暮らしている人もいますし、住民票をよそに置きながら通勤や通学で昼間だけ狭山にいる人もいます。こうした人たちも大切なまちの担い手です。私は、今いる自分の居場所を大事にしよう、「大好きなまち」にしよう、取材先で見てきた知見を狭山のまちづくりに生かしたいと思うようになりました。
 
 「狭山で市民ネットワークを作って議員を送り出したい。候補を引き受けてもらえないか」という話が舞い込んできたのは4年前に遡ります。その時ははっきりとお断りをし、この話はそこで立ち消えになったと思っていました。しかし、その後も数度にわたる懇願があり、私は相当に悩みました。そして、返事ができない理由を紙に書き出すなどし、何が自分の障壁になっているのかを考えました。引き受けることで失いかねないものを思うと朝まで眠れなくなりました。引き受けるにせよ断るにせよ真剣に考えて、ずいぶん夜明かしをしました。
 そして、そもそも私を議会に送り出したいと考えている人たちが、狭山のまちについて何を考えているのか、どんな問題意識を持っているのかと疑問に思い、まずはそれを聞き出すことからだと市民ネットワーク準備会の会議に参加するようになりました。それが今から1年ちょっと前のことです。

 その後私の問題提起に対して、準備会の皆が、自分たち自身の問題意識を振り返る作業に入りました。この期間は、メンバーの皆がまちづくりを「自分ごと」にしていくための必要な期間だったと思っています。
 
 ところで皆さんはどうでしょうか。いきなり「議会に出てくれない?」と言われて、うんと返事ができる人はどれだけいるでしょうか。そうそういないと思います。よく「議員の担い手不足」が言われますが、私は「やりたい」という人が少ないこと自体、社会問題だと思いました。新聞を読んで政治への不満はつぶやいても、じゃあ自分がやろうと考える人は限られています。

 私は、議会には多様な人が参加するべきだと思っていますが、現状は、年齢層の高い男性ばかりに偏っています。先ほど、「社会を多角的、多方向的に捉えることが大切」と言いましたが、暮らしやすいまちや社会を作るうえで、さまざまな立場の人の意見を取り入れて考えることは必須です。まちは、年齢も性も仕事も家庭環境もいろんな人がまぜこぜになっています。議会も同じように多様な人の参加が必要です。
 
 その点から、さやま市民ネットワーク準備会の皆が、メンバー内で最年少である私を代理人に推すことが理解できました。議会で40代といえば若手です。そして「私なんかにできるだろうか」という不安は、「私のような者でもできる」でないといけないと思うようになりました。以前は、私の中での議員のイメージは、地元に生まれ、地元が大好きで、地元のためには自己犠牲をいとわないという姿でしたが、このような人物像だけが求められるのであれば成り手は限られてしまいます。
 
 議員はヒーローではありません。ヒーローを立ててお任せして、それが期待と違ったら「まったく政治家がだらしがない」と文句を言う。それって違うんじゃないかと思います。そんな大人の姿を見ていたら子どもたちの中から次の担い手も育ちません。できることをやろうと思います。それも、私たちの声を私たちのまちづくりに反映させるために、みんなで取り組みたいと思います。
 
 とはいえ、実際はみんなでやるということは、難しいこともたくさんあります。さまざまな人が混ざるまちにおいて、利害がぶつかり合うこともあります。その調整は簡単なことではないでしょう。自分でさっさと決めたほうが手っ取り早いということもあります。けれども、そこを丁寧にまわしていく。これが、さやま市民ネットワークのやり方です。

 私は政治の役割は「大半の人をほどほどに」ではなくて、本当に困っている人への支援を優先することだと考えます。当事者の声、中でも小さな声や届きにくい声に耳を傾けたいと思います。その際、子育てで困った経験や終電帰りで大変だった日々も、きっと生きてくるだろうと思います。
 
 先ほど、代理人運動について説明がありましたが、代理人運動の理念に「議員を特権化しない」というものがあります。議員が特別な人にしかできないものであってはならないと思います。一市民である私にたまたままわってきた役回りと捉えて、力を尽くします。
 
 アメリカの子どもたちの積極性について最初に話しました。よく日本人は静かだと言われますが、つぶさに耳を傾けてみると、みんな本当はいろんな思いを抱えているのだと思うことがあります。黙っているだけだったり、一番に手を挙げるのをためらっているだけだったり。 

 だから、代理人についても、私が第一号になってレールを敷いてこようと思います。前例を作ってきます。いずれバトンタッチすることも視野にいれつつ、まずは最初のバトンを握らなくてはなりません。そのための応援をぜひ皆さんにお願いしたいと思います。

                                     
                                     丸橋ユキ